西光寺略縁起

浄土真宗本願寺派 般若山 西光寺 本尊 阿弥陀如来。
開基は大内家家臣であった真鍋幸次郎で、本願寺第8世「蓮如上人」の弟子となり、上人より法名「了円」ならびに六字名号を授かる。
長禄3年(1459)長州熊野村(現在の下関市熊野町)に西光寺を創設し、名号を安置。2世「了信」の代に、現在地(下関市清末)へ移る。
慶長12年(1607)、4世「善西」の代に本山より寺号・木仏および蓮如上人画像を授与された。
寛永17年(1640)・18年(1641)頃から新寺が続々と設立されますが、必ず本寺を必要としました。西光寺の直末寺は豊浦郡・美祢郡・厚狭郡・大津郡の各郡にわたって16ヵ寺あり、孫末寺まで数えると50ヵ寺を超す勢いで、長門部興正寺系の寺院では最大のものとなり、更に正徳4年(1509)には寺内寺、即ち塔頭(たっちゅう)「西願寺」が出来ております。
中本寺は九州一円に強い教線を張った豊前下毛郡「長久寺」。その長久寺の天然、堺の端坊明念の活動に追随して活動したのは2世了信か3世教信の時代であったでしょう。西光寺は長門地方真宗発展の一大拠点であったことと思われます。
西光寺は幕末の頃、騎兵隊の屯所となりました。現在でもその名残である銃剣の傷が本堂の柱に残っています。明治維新後、宗門の改革と僧侶の再教育に14世真鍋宏道は明円寺明三慧とともに改正掛として、大州鉄然島地黙雷をたすけて大いに活動したようであります。
(『防長寺社由来』『日本名刹大辞典』『由緒書』より)